赤池誠章

赤池誠章(あかいけまさあき) 自民党参議院議員(比例代表全国区) 現在、内閣府副大臣、自民党若手中堅政策研究会・保守団結の会共同代表世話人。
昭和36年山梨県生まれ。明治大学政治経済学部政治学科卒。松下政経塾出身。自動車整備士専門学校長を経て衆議院1期、参議院2期目。
自民党副幹事長、参議院国土交通委員会理事・憲法審査会幹事、文部科学大臣政務官、参議院文教科学委員長、自民党文部科学部会長(3期)等を務める。

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1月7日は「激動の時代を生きた」昭和天皇祭

昭和天皇と香淳皇后(宮内庁より) 1月7日は、昭和天皇が崩御された日です。皇居はじめ全国各地の神社において、昭和天皇祭が斎行されています。崩御なされる前年から体調を崩され、全国各地では快癒を祈って、記帳所が設けられ、多くの国民が記帳に訪れていました。昭和64(1989)年1月7日、午前4時過ぎに容態が急変し、午前6時33分に崩御なされました。87歳でした。●松下幸之助氏も逝去 パナソニックやPHP、松下政経塾等を創設した松下幸之助氏は、昭和天皇が崩御なされて、3か月後の4月27日に94歳で亡くなります。昭和天皇崩御の報を聞いて、これで自分の役割は終わったといって、気力が一気に衰えたという話を後で関係者から聞きました。松下翁以外でも、同様の話をいくつか聞きました。同年代の方々にとって、昭和天皇の存在は大変大きいものであることを痛感したものでした。明治天皇崩御に際しては、乃木希典大将は静子夫人とともに殉死します。昭和天皇崩御に際しても、松下翁には殉死に近い感覚があったのではないかと想像しています。 当時私は27歳で、松下政経塾在塾中で、研修の一環として、岡山県の県北にある久世町役場(現在の真庭市)で地域活性化研修に取り組んでいました。崩御した翌1月8日、大阪駅から研修先の岡山へ中国自動車道の高速バスに乗って向かっていました。久世町に到着すると、竹下登内閣の小渕恵三官房長官(当時)が、「平成」という元号を発表していました。一つの時代が終わり、そして始まったという思いを、岡山の地で抱いたことを今でも鮮明に覚えています。 ●昭和天皇とミッキーマウス 昭和天皇が崩御されて、4月29日は「天皇誕生日」から「みどりの日」となりました。当時「昭和記念日」にしようとも議論がなされましたが、野党の反対でつぶされてしまいました。昭和天皇は自然を愛し、海洋生物・植物の分類研究を行っていたので、「みどりの日」でも相応しいのではないかと言われたものでした。しかしながら、昭和天皇の事績を将来に残そうと、4月29日を「昭和の日」に名称変更しようという国民運動が起こります。その結果、平成17年の国会で、祝日法の改正が行われ、昭和天皇誕生日の4月29日を「みどりの日」から「昭和の日」に変わりました。祝日法には「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。」とされています。施行は平成19年からです。その年の4月29日に昭和天皇が眠る武蔵野陵(八王子市)で「昭和の日」制定記念式典が行われ、私も実行委員の一人として参加をさせて頂きました。その後、昭和天皇と香淳皇后が眠る武蔵野陵と、大正天皇と貞明皇后が眠る多摩陵に参拝致しました。 また、立川基地の返還後に整備された国立昭和記念公園の中に花みどり文化センターがあり、その一角に「昭和天皇記念館」があります。 公式ホームページはこちら http://www.f-showa.or.jp/2_jigyo/1_kinenkan.html 昭和天皇の事績が、一部屋にコンパクトにまとめられています。その中で印象に残ったのが、ミッキーマウスの腕時計です。昭和50(1975)年10月8日に昭和天皇と香淳皇后が訪米した際に、米国ロスのディズニーランドを訪れ、記念にミッキーマウスの腕時計を贈られたと言います。昭和天皇は大変気に入り、愛用されたと言うのです。実物が展示されていたのですが、確かに革バンドが擦り切れています。 昭和天皇とミッキーマウス。昭和天皇の人柄を彷彿とさせる逸話です。 ●身命をかけた昭和天皇 昭和天皇の87年の人生は、戦前戦中戦後と大激動の時代を駆け抜けたものです。平成26(2014)年に宮内庁が公式記録『昭和天皇実録』を公表しました。日記形式で年代順にまとめられており、61冊にもなります。市販もされています。 http://books.rakuten.co.jp/rb/13118608/ 昭和天皇は、明治34(1901)年4月29日午後10時10分に大正天皇の第一皇子としてお生まれになります。日英同盟と大正デモクラシーの申し子であり、英国風憲政を信奉され「君臨すれども統治せず」の立憲君主、責任内閣制を追求します。6か月間の欧州歴訪を終えて、20歳となった大正10(1920)年に摂政となります。直前に原敬元首相が東京駅で刺殺されます。大正12(1922)年9月1日の関東大震災に被災され、命を狙われながら復興に心を傾けられます。実際同年12月27日帝国議会開会式に向かう往路で、難波大助に狙撃されます(虎ノ門事件)。 大正天皇が崩御され、即位された後も、昭和3(1928)年大陸で張作霖爆殺事件が起き、ロンドン軍縮条約をめぐる統帥権干犯問題、国内の恐慌の中、田中義一内閣が総辞職し、その後を受けた浜口雄幸首相は昭和5年に東京駅で狙撃され、それが原因で死去します。昭和6(1931)年満州事変が起き、昭和天皇は昭和7(1932)年1月8日に、桜田門外で、朝鮮人独立運動家李奉昌から手榴弾を投げつけられます(桜田門事件)。満州国が建国され、同年5月15日は犬養毅首相が首相官邸で襲撃されて命を落とすという5.15事件が起きます。昭和11(1936)年2月26日には、軍隊の一部がク―データを起しました。2.26事件です。昭和12(1937)年には支那事変が起き、昭和天皇の意に反し日米交渉は進まず、昭和16(1931)年の大東亜戦争へとつながります。昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲の際に、皇居も空襲を受け、宮城が炎上します。8月15日の玉音放送が流され、終戦を迎えました。 昭和天皇は、立憲君主、責任内閣制の下、自らの意思を表明したのは、二度しかなかったと言われています。内閣が機能しなかった非常事態である「2.26事件」と「終戦のご聖断」です。 ●戦後の原点 「新日本建設に関する詔書」 戦後、9月27日にマッカーサーと会見した昭和天皇は次にようにおっしゃったと言います(『実録』より)。「この戦争については、自分は極力避けたいと考えてまいりましたが、戦争となるの結果を見ましたことは自分の最も遺憾とする所であります」「私も日本国民も敗戦の事実を充分認識していることは申すまでもありません。今後は平和の基礎の上に新日本を建設するために私としても力を尽くしたいと思います」「ポツダム宣言を正確に履行したいと考えております」戦後日本の出発点となったのは、日本国憲法ではなく、昭和21年1月1日に発せられた昭和天皇の新日本建設の詔書ではないかと思います。昭和天皇は、詔書の冒頭に明治天皇の五箇条の御誓文を掲げています。以下、前文を掲げます。 (出所)国立公文書館 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090419312897791    新日本建設に関する詔書 (昭和21年1月1日)茲(ここ)ニ新年ヲ迎(むか)フ。顧(かえり)ミレバ明治天皇 明治ノ初(はじめ)国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下(くだ)シ給(たま)ヘリ。曰(いわ)ク、 一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ 一、上下(しょうか)心ヲ一(いつ)ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ 一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス 一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ 一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ叡旨(えいし)公明正大、又(また)何(いずれ)ヲカ加ヘン。朕(ちん)ハ茲(ここ)ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須(すべか)ラク此(こ)ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ去リ、民意ヲ暢達(ちょうたつ)シ、官民挙(あ)ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以(もっ)テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。大小都市ノ蒙(こうむ)リタル戦禍(せんか)、罹災者(りさいしゃ)ノ艱苦(かんく)、産業ノ停頓(ていとん)、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢(すうせい)等(とう)ハ真(しん)ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然(しか)リト雖(いえど)モ、我カ国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且(かつ)徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全(まっと)ウセバ、独(ひと)リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。夫(そ)レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル、今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努力ヲ効スベキノ秋(とき)ナリ。惟(おも)フニ長キニ亙(わた)レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動(やや)モスレバ焦燥ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪(ちんりん)セントスルノ傾(かたむ)キアリ。詭激(きげき)ノ風漸(ようや)ク長ジテ道義ノ念頗(すこぶ)ル衰(おとろ)ヘ、為ニ思想混乱ノ兆(ちょう)アルハ洵(まこと)ニ深憂(しんゆう)ニ堪(た)ヘズ。然(しか)レドモ朕(ちん)ハ爾等(なんじ)国民ト共ニアリ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚(きゅうせき)ヲ分タント欲ス。朕ト爾等(なんじ)国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ。朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱(じかん)ニ蹶起(けっき)シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又産業及文運振興ノ為ニ勇往(ゆうおう)センコトヲ希念ス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚(あいよ)リ相扶(あいたす)ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興(さっきょう)スルニ於(おい)テハ、能(よ)ク我(われ)至高ノ伝統ニ恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯(かく)ノ如(ごと)キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以(ゆえん)ナルヲ疑ハザルナリ。一年ノ計ハ年頭ニ在リ、倫ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一(いつ)ニシテ、自ラ奮(ふる)ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾(こいねが)フ。 ●明治維新の精神を取り戻す この証書は、「天皇の人間宣言」ということで、喧伝されています。戦前天皇は現人神であったが、戦後は象徴天皇として、出発したというものです。しかし、全文を読んでみれば分かる通り、冒頭の明治天皇の五箇条の御誓文にすべて言いたいことは尽くされていると書いてあります。敗戦の混乱の中で、明治維新の精神に戻って、国民全体一致団結して頑張ろうということを言いたかったわけです。実際戦前天皇は現人神でもなんでもありませんでした。現人神が何度も命を狙われるということはあり得ない話です。 その後、昭和天皇は自ら全国各地を、また外国を精力的に行幸啓します。そして、直接国民に声をかけられ、励まされます。その姿は、被災した多くの国民に勇気を与えました。 困難な時代であればこそ、原点に戻ることで、目標を再確認して、気を取り戻し、頑張ることが重要です。 昭和天皇の崩御の日に当たり、昭和天皇に思いを致し、現在の困難に立ち向かう勇気を頂きたいものです。

1月14日は「尖閣諸島開拓の日」

 1月14日は「尖閣諸島開拓の日」です。平成22(2010)年9月に尖閣諸島沖の領海内で中共が漁船衝突事件を契機に、同年12月、沖縄県石垣市が条例を制定して決めたものです。この日は、明治28(1895)年に明治政府が閣議決定を行い、尖閣諸島を正式に沖縄県の帰属と決定した日です。魚釣島の地番は、沖縄県石垣市字登野城2390番地~2394番地となっています。 石垣市の条例制定の目的は、明治時代に尖閣諸島を開拓した古賀辰四郎氏らの功績を後世に残し、尖閣諸島が歴史的にも、国際法上も日本固有の領土であることをより明確に国際社会に対し意思表示し、国民世論の啓発です。 毎年1月14日に合わせて、石垣市は記念式典と啓発行事を開催しています。 http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/home/index.php●中共の侵略行為 中共が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、昭和43(1968)年に国連機関の調査で尖閣諸島周辺の海底に石油、天然ガスなどの資源が眠る可能性が報告されると、昭和46(1971)年になって、初めて尖閣諸島の「領有権」について独自の主張をするようになりました。それまでは、中共もわが国領土として、認識していた証拠資料がいくつも発見されています。 http://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/c_m1/senkaku/page1w_000016.html ところが、中共は平成4(1992)年に領海法で尖閣諸島を領土に属すると一方的に制定し、平成20(2008)年12月に突如として公船2隻が尖閣諸島周辺の領海を侵入しました。平成22(2010)年9月に菅民主党政権時に、尖閣諸島沖漁船体当たり事件を起こし、また平成24(2012)年9月に野田民主党政権時に尖閣三島を国有化して以降、公船を尖閣諸島周辺に張り付け、領海侵犯を繰り返しています。さらに、平成25(2013)年には尖閣諸島上空を含めて防空識別圏を設定し、航空機による領空侵犯まで起こしています。中共の一連の行為は、明らかにわが国への侵略行為と言わざるを得ません。●国の取組み わが国の方針は、尖閣諸島がわが国固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らかであり、現にわが国はこれを有効に支配しており、尖閣諸島をめぐって解決しなければならない領有権の問題はそもそも存在しないというものです。わが国は領土を保全するために、毅然としてかつ冷静に対応しており、国際法の遵守を通じた地域の平和と安定の確立を求めています。外務省 尖閣諸島 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/index.html 尖閣諸島資料ポータルサイト http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/shiryo/senkaku/index.html●石垣市の取組み 尖閣諸島が行政区内にある石垣市は、尖閣諸島開拓の日の条例(平成22年12月)を制定後、海洋基本計画を策定(平成25年3月)し、その中で、尖閣諸島について次のように記載しています。 http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/home/kikakubu/kikaku/pdf/kaiyou_kihon_plan.pdf「尖閣諸島は、石垣島の北西方、東シナ海に散在する無人島の島しょ群で、八重山では昔から「イー グン・クバジマ」の名称で呼ばれ、周辺海域は有数の漁場として知られている。明治28年、政府は尖閣諸島を沖縄県所轄とすることを閣議決定し、翌29年に沖縄県知事は、 これらの島々を八重山郡に編入した。なお、明治35年に、同諸島は石垣島大浜間切登野城村に 配属され、地番も設定された。明治30年からは開拓事業が開始され、明治42年の人口は248人に達している。尖閣諸島では、過去に地形測量や様々な調査が実施されている。環境関係では、昭和25年に 琉球大学による生物相及び資源に関する学術調査、昭和38年にはアホウドリ等の学術調査が実 施されている。また、昭和44から45年にかけては総理府が海底地質調査、九州大学・長崎大学が地質と生物調査を実施している。特に、琉球大学を主体とする昭和20年代から30年代の5 次にわたる学術調査は、様々な制約の中で実施されたが、非常に貴重なものである。尖閣諸島は、周辺から隔絶された絶海の島しょ群である。また、開拓団が引き上げてから、限られた調査団等が上陸しているほかは、人間の影響をほとんど受けていない。さらに、周辺の海域は好漁場となっている。すなわち、島々の陸上及び周辺の海域は、わが国のみならず、世界的にも貴重で豊かな生態系が形成されていると考えられる。学術的に貴重な尖閣諸島の陸域及び海域生態系は、適切に管理・保全されるべきである。また、 豊富な漁業資源の適切な管理と利活用の検討も必要である。海底鉱物等の海洋資源が存在する可能性もある。これらをテーマにした各種調査研究を実施することの重要性は高い。さらに、絶海の島しょ群である尖閣諸島において、これら調査研究を進め、また、適正に管理していくためには、最低限の施設とルールが必要である。施設に関しては、環境負荷に充分配慮すべきであることから、海洋再生可能エネルギー等の自然エネルギー活用などの検討も同時に進める必要がある。」 そして、石垣市は、調査保全等に充てるため「尖閣諸島寄附金」も募集しています。 詳細はこちらへhttp://www.city.ishigaki.okinawa.jp/home/kikakubu/kikaku/sub_page_senkakukifu.htm さらに、平成27年2月に、石垣市は上記の海洋基本計画にそって、既存資料や衛星画像の調査を行い、広報資料のアンケートを行った「尖閣諸島自然環境基礎調査事業報告書」を3部構成で107Pで取りまとめています。http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/home/kikakubu/kikaku/senkaku/kisotyousa_houkoku.pdf 以上の調査結果を踏まえて、平成27年3月に、石垣市は「石垣の宝 尖閣諸島」という10Pに渡るパンフレットを発行しています。 実物はこちらへ http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/home/kikakubu/kikaku/senkaku/senkaku_j.pdf

「日々勉強!結果に責任」

 平成21年の自民党大逆風の選挙で落選を経験し、平成25年の参議院議員選挙(比例代表全国区)で国政復帰をさせていただきました。その間、政権交代により民主党が政権を担うことになりましたが、日本にとっては、未曾有の被害をもたらした東日本大震災という国難にもみまわれ、それは大変な時期でした。自民党は野党になり、私自身も落選中の身で、無力な自分をこれほど歯痒く感じたことはありませんでした。 その時、心底痛感したのは、とにかく実力をつけなければという焦りにも似た思いです。それ以来、仕事の仕方、結果の出し方について改めて考えを徹底してまいりました。目の前のことに追われ、それらを対応していったら、途中で時間切れになって中途半端に終わってしまいました、ではなく、その時やらねばならないことを判断し、それらを達成するべく、できうることを徹底的に考え全力で行う姿勢で臨んでまいりました。筋の通らないところに結果は出ず、やるからには結果を出さねば意味が無い。そして、その結果には、それがどういう形をとるにせよ、責任を持つ。もし、望んだ結果にとどかなければ、目を逸らさずその原因をしっかり分析し、的確な改善策を考える。 これらの基本を忘れず、常に「日々勉強」しながら、経験を糧とし、学んだことはどんどん活かす。この積み重ねが力につながってはじめて、ようやく国家・国民のための仕事ができるようになるのだろう、そう思って、地道に一歩ずつ歩んでまいりました。時には突破力を武器に、ぶつかるべきところはひるむことなくぶつかってまいりました。 しかし、一つ一つ取り組めば取り組むほど、ますます課題の多さ・大変さに気づくばかりです。皆様のご意見・お声をお聞かせいただきながら、とにもかくにも一歩でも前に進めていきたいと、強くそう思って活動しております。 令和4年に入り、コロナ禍という100年ぶりの感染症の大流行が丸2年間経ちます。ワクチン接種が進み、収束を見通しつつありますが、新たな新規株が流行し始めています。引き続きどうか皆様のお力添えを賜りますことを切にお願い申し上げます。 令和4年 正月             自由民主党 参議院議員 赤池まさあき 

9月13日 乃木希典大将夫妻 殉死の日

 9月13日は乃木希典大将の命日です。明治期の代表的陸軍軍人であり、海軍の東郷平八郎元帥とともに「聖将」と呼ばれました。大正元年(1912)年に明治天皇の大喪の日に、乃木大将は自宅で殉死しました。奥様の静子様も後に続きます。乃木大将63歳、奥様53歳でした。東京赤坂の乃木坂にある、乃木大将を祀る乃木神社境内には、乃木大将の自宅がそのまま保存されています。外から、窓越しに自決した部屋を見ることができます。質素でありながら、和と洋が融合された機能的な部屋です。乃木大将は、明治天皇=国家に、忠を尽くし、殉じたのでした。●『乃木大将と日本人』 日本のリーダーとして、世界的に高く評価されていました。日露戦争の米国紙の従軍記者で英国人のウォシュバンが『乃木大将と日本人』(講談社学術文庫)を上梓しています。乃木大将との交流を感動的に書いています。国籍を問わずに、これ程尊敬されていたのかと驚かせます。 『乃木大将と日本人』http://bookclub.kodansha.co.jp/product?code=158455●乃木大将の生い立ち 乃木希典大将は、嘉永(かえい)2年11月11日(1849.12.25)に生まれます。長門(ながと)(山口県)府中藩(長州藩支藩)藩士乃木希次の3男で、幼名は無人(なきと)。江戸(東京)に生まれ、少年期に長府に移転。少年期に過ごした旧宅は、山口県下関市長府の乃木神社に復元されています。吉田松陰先生に心服し、松陰の叔父・玉木文之進の塾に学び、また集童場(長府の松下村塾と呼ばれた)で文武両道を鍛えます。江戸幕府の長州征伐の時、長府藩士で組織された報国隊に加わり、砲兵隊員として戦闘に参加します。戊辰戦争にも加わり、明治1 (1868) 年 10月報国隊読書掛となりました。その後京都に赴き、陸兵練兵教官などを務めたあと、同4年東京に出て新御親兵隊の陸軍少佐に任官。 明治4(1871)年陸軍少佐。西南戦争では歩兵第14連隊長心得を務め、田原坂の激戦で連隊旗を失ってしまい、自決を決意すましたが思いとどまります。これを終生悔い、恥として、大将を苦しめたといわれています。母寿子は妻帯を勧めて、11年8月27日薩摩(鹿児島)藩士湯地定之の4女お七(結婚後,静子)と結婚しましたが、鬱屈の情を酒にまぎらす日々が続いたと言います。 19年川上操六(1歳年長で薩摩出身の後陸軍大将M32没)とドイツに留学し。戦術を研究したことが転機となり、帰国後,軍紀確立などに関する意見書を提出します。一方、自らは常に軍服で身を律しました。 日露戦争では大将、第3軍司令官として出征し、難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃し、37年12月5日203高地を占領しました。翌年1月1日、旅順要塞司令官ステッセル中将の降伏申し入れに同意、翌日水師営で開城規約が成立、5日ステッセルと会見しました。旅順陥落までの戦闘で2子が戦死し、悲劇の将軍として国民的敬愛を集めました。3月奉天(瀋陽)の会戦で第3軍は北方へ退くロシア軍と激戦を展開しました。 その時の様子は「水師営の会見」(作詞・佐佐木信綱,作曲・岡野貞一)となり、文部省唱歌として歌われました。 39年軍事参議官。40年伯爵、明治天皇の信任厚く、40年学習院院長に任じられました。院長時代は、寄宿舎の学生たちと起居をともにして、御通学なされていた昭和天皇の御養育にも当たりました。明治天皇大葬の日の大正元年9月13日,妻の静子とともに殉死しました。63歳。号は静堂,石林子など。【辞世】うつし世を 神さりましし 大君の みあとしたひて 我はゆくなり  https://kotobank.jp/word/乃木希典-17456●乃木院長訓示要項 14か条の訓示 明治天皇の命により、晩年学習院第10代院長を務めます。そこで、初等科の小学生向けに、14か条の訓示をしています。同初等学科ではこれを「乃木院長訓示要項」と題して印刷し、第二次大戦中まで学生に配布していたということです。簡にして要を得るものがあります。乃木院長訓示要項1 口を結べ。口を開いて居るような人間は心に締りがない。2 眼の注ぎ方に注意せよ。始終キョロキョロしているのは、心の定まらない証拠である。3 敬礼の時は先方をよく注視せよ。4 自分の家の紋所、家柄、先祖の事はよく聞いて忘れぬ様にして置け。先祖の祭は大切であるぞ。5 男子は男らしくしなくてはいかん。弁当の風呂敷でも、赤いのや美しい模様のあるのを喜ぶ様では駄目だ。6 決して贅沢するな。贅沢ほど人を馬鹿にするものはない。7 人力車には成るべく乗るな。家で人力車をよこしても乗らないで帰る様にせよ。8 寒中水で顔を洗うものは幾人あるか。湯で洗う様ではいかぬ。9 寒い時は暑いと思い、暑い時は寒いと思え。10 破れた着物をそのまま着て居るのは恥だが、そこを継ぎをして縫って着るのは決して恥ではない。いや恥どころではない。11 恥を知れ。道に外れた事をして恥を知らないものは禽獣に劣る。12 健康の時は無理の出来るように体を鍛錬せよ。けれども一旦病気になったら医者の云う事をよく聞け。13 洋服や靴は大きく作れ。格好などかまうな。14 学習院の学生は成るだけ陸海軍人になれとは、陛下の御沙汰であるから、体の丈夫なものは成るべく軍人にならなければならぬ。けれども生まれつき体の弱い者もあり、又種々の事情でなれぬ者もあろう。是も仕方がないが、何になるにも御国のために役に立つ人にならなければならない。国のために役に立たない者、あるいは国の害になる様な人間は死んで仕舞った方がよいのである。 (出所)『学習院百年史 1』(学習院百年史編纂委員会 1981) 現在、学習指導要領には、小学校で教えるべき人物として、東郷平八郎元帥はあるのですが、乃木希典大将は入っていません。ぜひ明記して、学校で教えたいものです。●乃木大将の御縁個所全国各地に乃木神社があります。ぜひ訪問してみたいものです。乃木神社・殉死宅 https://www.nogijinja.or.jp/乃木家墓所(青山霊園内) https://goo.gl/maps/fd29y2mphu7BkPX57学習院大学・乃木館 https://www.gakushuin.ac.jp/loadimg/mejiro/25.html函館乃木神社 https://hakodate-nogijinja.com/ 那須乃木神社・乃木別邸 https://www.nasu-nogijinja.jp/京都乃木神社・旧宅 http://nogi-jinja.jp/web/長府乃木神社・旧宅 http://www.chofukankou.com/pg41.html 善通寺乃木神社・乃木館 https://www.city.zentsuji.kagawa.jp/soshiki/50/digi-m-culture-detail-049-index.html

4月11日生誕祭 10月7日墓前祭 橋本左内

 NHK大河ドラマ「西郷どん」が平成30年に放送されています。その中に福井藩医で藩主松平春嶽の意を呈して、江戸で西郷隆盛と交友する橋本左内(風間俊介)が登場します。  橋本左内(天保5・1834年〜安政6・1859年)は、越前藩医橋本長綱の子に生まれ、大坂の緒方洪庵の適塾で医学を修得し、嘉永5年(1852)帰国。安政元年(1854)江戸に遊学し、藤田東湖、西郷隆盛らとも交友します。帰国後、父が逝去し18歳で藩医を継ぎます。書院番・藩校明道館学監同様心得(教授)などに取り立てられ、横井小楠を招くなど福井藩の藩政改革の中心となります。安政4年(1857)江戸に赴いて藩主松平慶永に侍講兼内用掛として仕え、14代将軍に一橋慶喜を擁すべく奔走しましたが、井伊直弼の大老就任により挫折。安政の大獄により江戸で斬首されてしまいます。享年26歳でした。号は景岳。  ・国会図書館編「近代日本人の肖像」
 http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/313.html?cat=54 

橋本左内の洞察力は凄まじく、幕末時に国際情勢を展望して、鎖国の弊害、忠孝仁義の教えを固く守り、万国交易の必要性、国際連盟の創設、日英同盟、日露戦争を予見しています。そのための将軍継嗣や公武合体等の国内体制の改革を、朝廷や幕府、各藩に訴えたのでした。井伊大老に安政の大獄で死刑に追いやられた理由が、これだと言われています。幕府の重臣でさえ、井伊大老が橋本左内先生を死刑にしたことが倒幕の理由として十分だと言わしめたほどです。(平泉澄著『物語日本史』下P122)
●福井県での顕彰活動と今でも教育に活かされる 
 橋本左内先生顕彰会は橋本左内先生のご遺徳を顕彰し、合わせて郷土文化の振興に寄与することを目的に、昭和34年4月1日に発足しました。毎年、4月11日には生誕祭が春山2丁目常盤町の左内先生の育った生誕地で、10月7日には墓前祭が左内先生のお墓のある左内公園(墓前地)で、挙行されています。  https://www.city.fukui.lg.jp/kyoiku/gakusyu/sgakusyu/kenshoukai.html  
 さらに福井県の各中学校で、郷土の英雄・橋本左内先生が15歳の元服(成人式)の時に記した「啓発録」の中にある「立志」に基づき、「啓発録」を学び、立志式や立志作文を実施していると聞いています。  http://www.fukui-city.ed.jp/asuwa-j/fureai/fureai_gif/h22/fureai2011_03_01.pdf
  ・「橋本左内先生に学ぶ」推進協力校について
https://www.city.fukui.lg.jp/kyoiku/gakusyu/sgakusyu/suishinkyouryokukou.html#meido
 ・橋本左内先生冊子作成について https://www.city.fukui.lg.jp/kyoiku/gakusyu/sgakusyu/sasshi.html   ●『啓発録』橋本左内著
  橋本左内は、15歳の時の著書「啓発録」には、①幼心を去り、②気を振るい、③志を立て、④勉学し、⑤友を択べと書かれています。 ①稚心を去る(去稚心) 子どもじみた甘えを脱却せよ。

遊びにばかり熱中し、甘いものをむさぼり食い、毎日怠けて安楽に流れる。それも幼い子供のうちは強いて責めるほどのこともないが、学を志す十三、四にもなって、そんな気持ちが微塵でも残っていたなら、何をしても決して上達することはない。まして天下一流の大人物になることなど程遠い。  ②気を振う(振気) 恥辱を知って、人に負けまいと強く決意せよ。

 気とは、負けじ魂と、恥を知り、それをくやしく思う気象のことである。常にそうした心を持ち、その精神を奮い立たせ、緊張をゆるめず油断のないように努力しなければならない。 ③志を立つ(立志) 自分の目標を揺ぎなく定め、ひたすら精進せよ。

 志とは自分の心が向う目標である。一度決心したからには、真直ぐにその方向を目指し、迷わず進まなければならない。聖賢豪傑になろうと決意したら、聖賢豪傑らしからぬところを日一日取り去っていけば、どんなに才能が足らず、学識の乏しい者でも、最後には聖賢豪傑の地位に到達できるはずである。また、志を立てる近道は、聖賢の考え方や歴史の書物を読んで、その中から深く心に響いた部分を抜書きし、壁に貼り付けたり、常用の扇にしたためておくなど、常に目に触れるところにおき、自分を省みることである。 ④学に勉む(勉学) 優れた人物の立派な行いを見習い、実行せよ。学とは、本を読んで知識を吸収することだと思われがちだが、それは間違いだ。学問とは、優れた先人の立派な行いに習い、自分も負けるものかと努力することであり、忠義の精神を養うことである。どのような立場になろうとも、私心を捨て、公のために貢献しなければならない。
次に勉とは、自己の力を出し尽くし、目的を達成するまではどこまでも続けるという意味である。何事によらず、強い意志を継続し、努力を続けなければ、事は成らない。 ⑤交友を択ぶ(択交友) 自分の向上につながる友を択(えら)べ。自分と交際してくれる友人は、皆大切にしなければならない。しかし、飲み食いや歓楽を共にするために付き合い、馴れ合うことはよいことではない。学問の講究、武芸の練習、志や精神の研究などの上で交わりを深めるべきである。堕落につながる交際を求める友人がいたら、正しい方向へ導くべきである。
また、自分の過ちを遠慮なく指摘してくれる友は、時に厄介(やっかい)なものではあるが、とても大切だ。厳格で意志が強く正しい。温和で人情厚く誠実である。勇気があって果断である。才知が冴え渡っている。小事にとらわれず度量が広い。この五点を目安に友人を見定めればよい。小人は、他人にへつらい媚(こ)び、小利口で落ち着きがなく、軽々しくいい加減なものであるが、すぐに心安くなれるので、世間では人柄がほめられたりするものである。しかし、聖賢を目指そうと志す者は、彼らとは違った厳しい目を持たねばならない。
 ・『啓発録』全文 http://www.j-texts.com/kinsei/keihatu.html  

2月11日は「建国記念の日」(紀元節)

 写真は、神武天皇陵(出所:橿原市) http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_kankou/kankou/spot/jinmu.html 2月11日は、国民の祝日「建国記念の日」です。全国各地で、民間主導で様々な記念式典や奉祝行事が開催されています。 ・「ようこそ日本のはじまり」橿原神宮 http://www.kashiharajingu.or.jp/ 「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨のもとに、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する」(祝日法)国民の祝日です。 http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=323AC1000000178&openerCode=1 安倍政権になって、「建国記念の日」のメッセージが発出されるようになりました。 https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/discourse/20180211message.html ●紀元節が建国記念の日へ 「建国記念の日」は、戦前は「紀元節」でしたが、敗戦直後GHQの占領政策によって廃止されてしまいました。戦後国民の多くの要望や運動によって、昭和41(1966)年に祝日法が改正され、翌年から「建国記念の日」として復活して今日まできました。 わが国の建国の日が2月11日なのは、初代神武天皇即位の日であるところからきています。日本書紀によると、初代神武天皇が橿原宮(奈良県橿原神宮)で即位した日が「辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮」とあり、明治維新後に新暦換算して、紀元前660年2月11日と定めました。そこから、皇紀が生まれ、西暦に660年を足すと今年の皇紀が分かります。●国を愛する心を養う

12月28日は慰安婦問題の日韓合意の日

 12月28日は、日韓間の慰安婦問題について「最終的かつ不可逆的に解決」を国家間で合意した日です。平成27(2015)年12月28日に、日韓両外相が共同記者発表をしました(写真参照)。
  ・詳細は http://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/na/kr/page4_001664.html  しかしながら、韓国大統領が交代となると、日韓合意から2年後の平成29(2017)年12月27日に、韓国は日韓合意の検証結果を公表し、合意内容を批判し始めています。それに対して、我が国は、合意の履行を強く求めています。
  ・詳細は http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page4_003587.html 改めて、慰安婦問題について、事実を明らかにしておきたいと思います。 ●慰安婦問題の事実とは  慰安婦問題については、日本がこれまでとても誠実に対応してきているということと、事実関係が誤って認識されていることが多いということをお伝えしたい。 
1950~1960年代  先の大戦に係る賠償や財産、請求権の問題については、日本は、1950~60年代に締結したサンフランシスコ平和条約及びその他二国間の条約等に従って誠実に対応してきており、これらの条約等の当事国との間では、個人の請求権の問題を含めて、法的には解決済みである。 
 韓国との関係では、1965年の日韓請求権・経済協力協定により、日本と韓国との間の財産・請求権の問題は、完全かつ最終的に解決された。
 1990年代~2000年代  このように慰安婦問題を含めて、先の大戦に係る請求権の問題は法的に解決済みであったが、1990年代に入って慰安婦問題が日韓間の政治問題として提起されたことを受け、日本は誠実に検討し、措置を講ずることとした。 
<アジア女性基金>  具体的には、関連資料の調査等を行った上で、1993年に内閣官房長官談話を発表して、日本政府の認識を示した。加えて、既に高齢となった元慰安婦の方々の現実的な救済を図るため、1995年、日本政府と日本国民が協力して元慰安婦の方々への医療・福祉支援事業や「償い金」の支給等を行うために、アジア女性基金を設立した。この基金は、その後、そうした活動を、オランダ、フィリピン、韓国、台湾、インドネシアにおいて行った。また、その際、心からのお詫びと反省の気持ちを表す内閣総理大臣の手紙が直接元慰安婦の方々に届けられた。 2000年代~2010年代  その後も、韓国において、慰安婦問題を政治問題化する動きは止まらなかったが、2000年代には、それが米国などにおいても慰安婦碑や慰安婦像の設置、議会の決議といった形で現れた。そうした碑等においては、慰安婦が「強制連行」された、慰安婦の数は約「20万人」であった、慰安婦は「性奴隷」であるといったことが記されていることが多い。  日本は、このような事実に反する内容の記載に対し、累次の機会に反論してきた。   慰安婦が「強制連行」されたという主張に対しては、日本政府は、日韓間で慰安婦問題が政治・外交問題化した1990年代初頭以降、慰安婦問題に関する事実調査を行ったが、日本政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる「強制連行」 を確認できるものはなかったと反論している。
なお、 「慰安婦が強制連行された」という見方が広く流布された原因は、1983年、吉田清治という日本人が、「私の戦争犯罪」という本の中で、同人自らが、「日本軍の命令で、韓国の済州島において、大勢の女性狩りをした」という虚偽の事実を捏造して発表したためである。この本の内容は、当時、大手の新聞社の一つである朝日新聞により、事実であるかのように大きく報道され、日本、韓国の世論のみならず、国際社会にも、大きな影響を与えた。しかし、当該書物の内容は、後に、研究者により、完全に想像の産物であったことが既に証明されている。朝日新聞自身も、2014年に事実関係の誤りを認め、正式にこの点につき読者にお詫びしている。   慰安婦数が「20万人」という主張についても、日本政府は、具体的裏付けがないと反論している。
同じく朝日新聞は、2014年8月5日付けの記事で、「『女子挺身隊』とは戦時下の日本内地や旧植民地の朝鮮・台湾で、女性を労働力として動員するために組織された『女子勤労挺身隊』を指す。・・・目的は労働力の利用であり、将兵の性の相手をさせられた慰安婦とは別だ。」とした上で、「20万人」との数字の基になったのは、通常の戦時労働に動員された女子挺身隊と、ここでいう慰安婦を誤って混同したことにあると自ら認めている。   また、「性奴隷」という表現についても日本政府は反論している。事実、後で触れる2015年の慰安婦問題についての日韓合意においても、「性奴隷」という表現は使われていない。  他方で、日本政府の誠実な対応は変わっていない。例えば2015年8月14日の内閣総理大臣談話で、安倍内閣総理大臣は、「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」とした上で、「二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードして」いくとの決意を表明した。  さらに、韓国政府が慰安婦問題を提起し続けてきたことを踏まえ、2015年12月28日には、ソウルにて日韓外相会談が開催され、慰安婦問題につき妥結に至り、慰安婦問題が「最終的かつ不可逆的に」解決されることが確認された。同日後刻、日韓首脳電話会談が行われ、両首脳はこの合意に至ったことを確認し、評価した。日韓両国が合意に達したことについては、潘基文国連事務総長を含め、国際社会が歓迎の意を表明した。また、多くの元慰安婦の方々が、韓国が設立した財団の事業受け入れを表明した。既に日本は、この財団に対し、10億円の資金の支出を完了しており、日韓合意に基づく日本側の責務を果たした。一方で、ソウルの在韓国日本大使館前の慰安婦像が除去されないばかりか、2016年12月30日には、在釜山総領事館に面する歩道に慰安婦像が新たに設置されてしまった。  現在でも、米国などいくつかの国で、韓国系や中国系による慰安婦像設置等の動きが見られる。このような動きは政治的なプロパガンダであり、非常に残念なことである。在留邦人や日系人に対する無用な差別やコミュニティの分断につながる懸念もある。日本は、多様な民族が平穏に暮らせるよう切に望んでいる。  The Facts regarding the Comfort Women Issue  I would like to take this opportunity to explain that Japan has addressed the comfort women issue in a faithful and sincere manner and that the facts concerned are not properly recognized.  1950’s – 1960’s  Japan has dealt in good faith with the issues of reparations as well as property and claims arising from the World War II in accordance with relevant international agreements concluded from 1950’s to 1960’s, such as Treaty of Peace with Japan and bilateral treaties. Those issues, including the issues of claims by individuals, were thus settled from the legal point of view vis-à-vis the parties to those agreements.   Regarding the relationship with the Republic of Korea, the “Agreement on the Settlement of Problems Concerning Property and Claims and on Economic Co-operation between Japan and the Republic of Korea,” which were concluded in 1965, settled completely and finally the issues of property and claims between Japan and the Republic of Korea.  1990’s – 2000’s  As mentioned above, the issue of claims arising from World War II, including those related to the comfort women, had been legally settled. However, Japan sincerely examined what could be done and decided to exert additional efforts in the 1990’s, when the comfort women issue started to develop as a political and diplomatic issue between Japan and the Republic of Korea.   After the Government of Japan delved into the historical documents, the then Chief Cabinet Secretary issued a statement and expressed its recognition of the issue. In addition, in order to offer realistic relief to former comfort women who has already been advanced in years, the people and the Government of Japan worked together to establish the Asian Women’s Fund in 1995 with the objective of providing medical and welfare support as well as “atonement money” to those women. The activities of the Fund were carried in the Netherlands, the Philippines, the Republic of Korea, Taiwan and Indonesia. Successive Prime Ministers also sent signed letters on behalf of the Government of Japan, expressing apologies and remorse directly to each former comfort woman at the time of provision of the “atonement money” as well as medical and welfare support.  2000’s – 2010’s  Such political movements, which tuned the comfort women issue into a political issue, did not halt. They appeared in various ways in 2000’s, such as the installation of comfort women memorial and statue as well as the approval of the resolution of local assemblies. Such memorial usually carries an inscription, which reads that the comfort women were “forcefully taken away,” that there were approximately “200,000” comfort women, and that they were “sex slaves.”   Japan has taken various opportunities to refute these erroneous allegations.   Regarding the contention that the comfort women were “forcefully taken away,” the Government of Japan offers rebuttals that “forceful taking away” of comfort women by the military and government authorities could not be confirmed in any of the documents that the Government of Japan was able to identify in its study in the early 1990’s, when the issue developed as a political and diplomatic issue.
The reason behind the widespread belief that comfort women were “forcefully taken away” is a fabricated story reported by the late Japanese Seiji Yoshida in his book entitled “My War Crime” in 1983. In this book, Yoshida illustrates himself hunting many women by order of the Japanese military in Jeju Island of the Republic of Korea. At the time, the content of his book was widely reported as if it were a true story by the Asahi Shimbun, a major Japanese newspaper. It eventually made a tremendous impact not only on public opinion in Japan and the Republic of Korea, but also in the entire international community. The reality is, Yoshida’s story has later been proven to be entirely a product of imagination by scholars. In fact, the Asahi Shimbun later published articles several times including on August 5 and 6, and later in September, 2014, admitted having published erroneous articles, and officially apologized for it to their readers.  The figure “200,000 persons” as the number of comfort women also lacks concrete evidence according to Japan’s study.
The Asahi Shimbun clarified in its article dated on August
5, 2014 that “‘Women volunteer corps’ refer to the ‘women volunteer labor corps’ that were organized to mobilize women as a work force during the war in Japan proper as well as in the former colonies on the Korean Peninsula and Taiwan” and that “With the objective of using the women as a work force, the corps were different from comfort women who were made to serve as sexual partners for military personnel.” The Asahi Shimbun itself admitted that the figure “200,000” which it had reported was originated from its confusion with comfort women of the Women Volunteer Corps who were mobilized as a war-time labor force.  The Government of Japan rejected the expression “sex slaves.” To tell the truth, even the 2015 agreement on the comfort women issue, which I will mention later, did not include such description.

 It should be noted that the faithful attitude of the Government of Japan toward the comfort women issue has been solid and unwavering. For example, Prime Minister Shinzo Abe touched upon the issue in a statement on August 14, 2015, saying “We must never forget that there were women behind the battlefields whose honour and dignity were severely injured,” and “Japan will lead the world in making the 21st century an era in which women’s human rights are not infringed upon.”  Considering that the Government of Republic of Korea insisted to raise the comfort women issue, there held the Japan-Republic of Korea Foreign Ministers Meeting on December 28, 2015 at Seoul, which reached an agreement on this issue and confirmed that the issue was “finally and irreversibly” resolved. The Japan-Republic of Korea Summit Telephone Talk was followed on the same day, where the two leaders confirmed that both sides reached an agreement and honored such development. The international community, including the then United Nations Secretary-General Ban Ki-moon, welcomed this agreement. It should also be noted that the majority of the survivors of former comfort women at the time of the agreement expressed their willingness to receive support provided by the foundation. Japan has already contributed 1 billion yen to the foundation established based on the agreement, which clearly shows Japan’s commitment to the agreement. On the contrary, the statue built in front of the Embassy of Japan in Seoul has not been removed yet. What is worse, another comfort women statue was installed on the sidewalk facing the Consulate-General of Busan on December 30, 2016.  Furthermore, in countries including the United States, there still exist political movements which are seeking for putting up another comfort women statue by the Korean or Chinese groups. These are definitely political propaganda activities, which I am deeply concerned. They may also cause meaningless discrimination and divide local communities. I would like to see that members of the Japanese community who wish to live in peace and in harmony with other various groups.   

11月25日は憂国忌

NHKで45年前の「割腹自殺」のニュースを観ることができます。 http://cgi2.nhk.or.jp/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0012301114_00000  11月25日は三島由紀夫先生の命日「憂国忌」です。 三島由紀夫先生は大正14年1月14日に生まれ、作家として一世を風靡し、昭和45年11月25日に自衛隊市谷駐屯地で自衛隊に決起を求め、割腹自殺をして45歳で亡くなりました。●このまま行ったら日本はなくなってしまう 産経新聞に掲載された有名なコラムの結論を引用します。 【私の中の25年】三島由紀夫 果たし得ていない約束 恐るべき戦後民主主義 
 「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」   (出所:「昭和四十五年七月七日付産経新聞夕刊」)
  市ヶ谷駐屯地での最期の檄文の結論を引用します。   激   楯の会 隊長 三島由紀夫 「日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。」  (出所:『三島由紀夫全集34』新潮社・昭和51年2月)

 上記の全文は以下で転載しています。
 http://ameblo.jp/akaike-masaaki/archive1-201501.html
 ●我が国を護るために それから45年が経ちます。三島由紀夫先生の訴えは今も続いています。 現在憲法学者の6割は自衛隊を違憲と考え、8割は憲法9条改正の必要性はないと回答しています。
【安保報道】朝日新聞 憲法学者アンケートの結果の一部を紙面に載せず
 http://bylines.news.yahoo.co.jp/yanaihitofumi/20150722-00047752/   自衛隊を憲法に明記する最低限の憲法改正を実現したいと、憂国忌の今日、改めて思っています。●参考資料  最近産経新聞が、関係者の証言を基に「三島由紀夫事件」を特集しています。  http://www.sankei.com/life/topics/life-30971-t1.html 
 詳細な年譜は、山梨県山中湖村の三島由紀夫文学館のHPで読むことができます。  http://www.mishimayukio.jp/history.html

 

12月25日は大正天皇例祭日

写真は、大正天皇崩御を報道する当時のNHKニュースです。 http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060005_00000  大正天皇御製 年どしに わが日の本の さかゆくも いそしむ民の あればなりけり
(大正5年歌会始)  12月25日は、先々帝の大正天皇が崩御された日です。 毎年皇居内の皇霊殿において、大正天皇例祭が斎行されています。    http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html 
 また、八王子にある多摩陵(たまのみささぎ)でも、勅使が参向されています。  http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/123/index.html
  さらに、各地の神社においても、例祭が執り行われ、御陵を遥拝しています。  靖國神社 http://www.yasukuni.or.jp/schedule/  宮崎神宮 http://miyazakijingu.jp/modules/about/index.php?content_id=3  ●大正天皇の生涯
  明治12(1879)年8月31日に、明治天皇の第三皇子として、東京にお生まれになりました。母は女官の柳原愛子(なるこ)。明治天皇の崩御により即位し、大正と改元し、第123代天皇に即位。第一次世界大戦やロシア革命があり、国際情勢が激動し国際協調お気運が高まる中、国内では護憲運動、天皇機関説論争、関東大震災などが発生しました。幼少から健康がすぐれず、大正10年11月皇太子裕仁(ひろひと)(のちの昭和天皇)を摂政としています。皇室として初めて一夫一妻制を確立しました。 大正15(1926)年12月25日崩御。48歳でした。墓所は多摩陵(みささぎ)(東京都八王子市)。幼称は明(はるの)宮。諱(いみな)は嘉仁(よしひと)。 (出典)講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus  ●大正デモクラシー、普通選挙  平成28年7月の参院選から18歳19歳に選挙権が付与されることになりました。わが国では、納税要件をはずして誰でも選挙権を得る「普通選挙」が実現したのは、大正時代でした。国際協調の中資本主義が発達し、大正デモクラシーと呼ばれ、閥族打破・立憲政治を求める護憲運動(憲政擁護運動)が、普選運動(普通選挙実現)と連動し、長年の国民運動の成果として大正15(1926)年に25歳以上の男性すべてに選挙権が付与されました。女性の選挙権付与の運動も活発に行われましたが、その実現は戦後を待たねばなりませんでした。  選挙権はただ与えられたものではなく、長年の普通選挙を実現しようとした先人たちの努力の成果であり、その歴史を、大正天皇祭の今日、改めて振り返りたいと思います。 

11月7日はロシア革命とゾルゲ事件の日

『ゾルゲの見た日本』新装版 みすず書房編刊 2017年 11月7日は、ロシア革命が起き、「20世紀最大のスパイ事件」と言われるゾルゲ事件のゾルゲと尾崎秀実が処刑された日です。 1917年大正6年11月7日にロシア革命が起き、帝政ロシアが崩壊し、ソビエト連邦が成立しました。共産主義者が初めて政権を奪取し、その後の国際共産主義運動(コミンテルン)が日本はじめ全世界を席巻します。優秀な人材をオルグ(組織化)して、細胞(革命工作員)を各組織に潜り込ませ、労働者や一般人を扇動し、サボタージュや破壊活動を起こしました。その脅威は、今日では考えられない程のものでした。●リヒャルト・ゾルゲ(1895-1944)の暗躍 その赤色革命の信奉者が、ドイツ人記者でソ連のスパイであったリヒャルト・ゾルゲ(コードネームはラムゼイ、1895-1944)であり、彼の諜報団の仲間、朝日新聞記者の尾崎秀実(おざきほつみ、1901-1944)らでした。ゾルゲは、ドイツや日本のソ連侵攻の有無という機密情報をソ連に伝え、救国の英雄として現在でも尊崇されています。 先日たまたまワールドニュースを観ていたら、ロシアのある地域でゾルゲの銅像の除幕式のことが流されていました。また、10月4日にはゾルゲが埋葬されている東京の多摩霊園で、ゾルゲ生誕120年献花式が実施されていました。いまだに尊敬されているのかと驚きました。 http://jp.rbth.com/news/2015/10/06/479903●尾崎ら日本人協力者 尾崎は、米国人記者で米国共産党のアグネス・スメドレーからゾルゲを紹介され、朝日新聞記者としての情報宣伝活動のみならず、総理となった近衛文麿の側近としても活動し、支那事変や北進策ではなく南進策を採用する等の国策に影響を与え、ソ連にその情報を伝え続けました。 ゾルゲ諜報団(ラムゼイ機関とも言う)20名は、昭和16(1946)年大東亜戦争開戦前に、国家保安法や治安維持法によって、次々に逮捕されました。首謀者であったゾルゲと尾崎は、戦争末期の昭和19(1944)年11月7日のロシア革命記念日に、巣鴨拘置所で死刑となりました。●イデオロギーと諜報活動の脅威を防ぐために 現在、冷戦が終結してソ連はじめ共産主義各国が崩壊し、共産主義の脅威について、実感を持って感じられなくなってしまっています。しかしながら、日本の周辺国には、いまだに中共と北朝鮮という形を変えた共産主義、全体主義国家が跳梁しています。中共においては、伝統的な中華思想と共産党一党独裁が結合して、資本主義の経済力をつけて最悪の全体主義国家として、世界の脅威となっています。 国内においても、天皇制打倒を掲げ、国際共産主義運動の日本支部として誕生した日本共産党がいまだ活動を続けており、暴力革命を表面的に放棄したとはいえ、二段階革命(民主主義革命後に共産主義革命を起こす)を目指し、防衛省はじめ国家中枢に工作員網を張り巡らしています。例えば、先の国会での平和安全法制の審議中に、防衛省の内部情報が共産党に漏れ、国会で質問されて問題になったことは記憶に新しいところ。 また、外交活動には諜報活動が表裏一体であるとの国際常識の下で、日本は「スパイ天国」と呼ばれて官民の重要な情報が搾取され放題でした。国内においては、公安警察や公安調査庁等があるとはいえ、課題があると言えます。安倍政権になって、内閣官房に国家安全保障局が設置され、スパイ防止法の役割を担う特定秘密保護法が制定され、施行され始めました。しかしながら、対外諜報活動は、情報収集衛星だけでは限界があり、ヒューミント(HUMINT、Human intelligence=人間やメディアを媒介とした諜報活動)は、外務省や防衛省が担っているとはとても言えるような状況ではありません。日本も、一日も早く対外諜報機関を設立すべきだと考えます。北朝鮮に拉致された日本人の救出することを考えた時に、自衛隊の特殊部隊に実力で奪還する力があっても、拉致された日本人の所在情報がなければ、救出することはできないからです。 現代は、共産主義だけでなく、ISIL等のイスラム原理主義の台頭もあります。改めて、ロシア革命とゾルゲ事件の起きた今日だからこそ、イデオロギーと諜報活動の脅威を教訓にして、私たちの国の行く末を考える日にしたいと思います。

7月13日はノーベル平和賞・劉暁波氏の命日

写真は、劉暁波氏と妻の劉霞さん(出所)ハフポスト/ロイターhttp://www.huffingtonpost.jp/2017/07/13/liu-xiaobo-final-statement_n_17478148.html●ノーベル平和賞受賞者・劉暁波(Liu Xiaobo)氏逝去 チャイナの教師で文筆家、民主化活動家で、2010年ノーベル平和賞受賞者の劉暁波(Liu Xiaobo)氏が、2017年7月13日に逝去しました。中共の言論弾圧で投獄され、獄中で肺ガンとなり、国外治療も許されず、遼寧省瀋陽市の病院で息を引き取りました。享年61歳でした。六四天安門事件から28年、国内に留まり非暴力主義で中共と対峙し続けた気高い人生に、敬意を表したいと存じます。氏の死と墓所が民主・人権の象徴化することを恐れた当局は、家族に圧力をかけたのか、あっという間に15日に火葬がなされ、その日の内に遺灰が海に散骨されてしったとのことです。 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170716/k10011060771000.html 彼の死を悼みつつ、改めて国内外に害毒を流し続ける中共の一党独裁体制の変革は不可避だと確信しました。  中共は、我が国の隣国であり、13億人の世界一の人口を抱え、「偉大なる中華民族の復活」を掲げて、世界第二位の経済大国を背景に、宇宙やサイバー、海洋にも浸出している軍事大国でもあります。我が国の尖閣諸島沖の領海への接続、侵入は常態化しており、7月15日には長崎県対馬、福岡県沖ノ島周辺の領海にも、中共の公船(海警局)が初めて侵入しました。一方、上野動物園のパンダの赤ちゃん誕生が話題となっていますが、高額貸与されたパンダはまさに彼の国の外交道具です。以上を強力に指導しているのが共産党の一党独裁体制です。●劉暁波氏の「零八憲章」 劉暁波氏は、1989年六四天安門事件で「四君子」(4人の指導的知識人)として注目され、以後当局による監視が行なわれ,活動が制限され、何度も投獄されました。 六四天安門事件とは https://m-a.amebaownd.com/posts/3429864 それにもかかわらず、亡命せずに本国に留まり続け、2008年世界人権宣言60年の節目に「零八憲章」を公表し、次のように中共の一党独裁体制を批判しています。 「1949年に建国された"新中国"は、名前こそ"人民共和国"だがその実は"党の天下"である。政権政党は政治・経済・社会の全ての資源を壟断し、反右派闘争、大躍進、文化大革命、六四天安門事件や、宗教活動及び維権運動の弾圧など一連の人権災害を引き起こし、数千数万の命が奪われ、国民も国家も無残なつけを払わさせられた。」 「法律あって法治無く、憲法あって憲政無く、というのが誰の目にもはっきりとした政治の現実である。為政者集団はなお権威主義的な統治を堅持・継続し、政治変革を拒んでいる。このことから、官界が腐敗し、法治が妨げられ、人権が霞み、道徳が失われ、社会が両極に分化し、経済が奇形の発展を見せ、自然環境と文化環境が幾重にも破壊され、公民の自由・財産と幸福を追求する権利が制度化された保障を得られず、各種の社会矛盾が絶えることなく積み重なり、不満が膨らみ続け、特に官民の対立と群衆事件が激増し、破滅的な制御不能の趨勢に陥っている。現行体制の立ち遅れぶりはもはや改めないでは済まない段階に至っている。」 そこで、自由、人権、平等、共和、民主、憲政の6つの基本理念の基、憲法改正、分権均衡、立法民主、司法独立、公器公用、人権保障、公職選挙、都市農村平等、結社自由、集会自由、言論自由、宗教自由、公民教育、財産保護、財政税制改革、社会保障、環境保護、連邦共和、正義回復の19の主張を訴えたのでした。 http://www.a-daichi.com/freetibet/charter08/ 以上の劉暁波氏の「零八憲章」は、我が国から見れば、当たり前のことばかりです。その当たり前のことが隣国、世界第二位の経済大国である中共にはないということです。その証拠に、劉暁波氏が「零八憲章」をネットで公表し、海外を含め1万人の賛同署名を集めると、憲章発表の前日に当局に拘束され、10年2月に「国家政権転覆扇動罪」の罪で、懲役11年の実刑判決を受けてしまいました。彼だけでなく、妻も軟禁状態に置かれました。そして、今回彼が重い肝臓がんの病気になった後も、治療のための出国も許されず、逝去後も当局の監視下に置かれ、遺骨の海への散骨が強制されたのです。 いくら中共が死後も劉暁波氏を隠そうとしても、彼の訴えたことを覆い隠すことはできないと思います。なぜなら、彼の主張は普遍的な真実を突いており、それはチャイニーズにとっても同様だと思うからです。●我が国の外務省報道官談話 我が国の外務省は、7月14日にノーベル平和賞受賞者・劉暁波氏の死去に際して、報道官談話を出しています。1 自由と民主の追求に人生を捧げられた劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏のご逝去の報に接し、心から哀悼の意を表します。2 日本政府としては、自由、基本的人権の尊重、法の支配は、国際社会における普遍的価値であり、これらが中国においても保障されることが重要であると考えています。引き続き高い関心を持って、中国の人権状況を注視していきます。3 そのような観点から、劉霞(りゅう・か)夫人に関しても適切な対応がなされるべきであると考えます。http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page4_003141.html うーん、外務省は、もっとはっきり言うべきでしょう。外交戦とは言葉の戦いでもあるのですから。これでは、あまりに弱腰すぎます。自民党からしっかり注文を付けていきたいと思います。