参議院議員 赤池まさあき

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4月11日生誕祭 10月7日墓前祭 橋本左内

 NHK大河ドラマ「西郷どん」が平成30年に放送されています。その中に福井藩医で藩主松平春嶽の意を呈して、江戸で西郷隆盛と交友する橋本左内(風間俊介)が登場します。  橋本左内(天保5・1834年〜安政6・1859年)は、越前藩医橋本長綱の子に生まれ、大坂の緒方洪庵の適塾で医学を修得し、嘉永5年(1852)帰国。安政元年(1854)江戸に遊学し、藤田東湖、西郷隆盛らとも交友します。帰国後、父が逝去し18歳で藩医を継ぎます。書院番・藩校明道館学監同様心得(教授)などに取り立てられ、横井小楠を招くなど福井藩の藩政改革の中心となります。安政4年(1857)江戸に赴いて藩主松平慶永に侍講兼内用掛として仕え、14代将軍に一橋慶喜を擁すべく奔走しましたが、井伊直弼の大老就任により挫折。安政の大獄により江戸で斬首されてしまいます。享年26歳でした。号は景岳。  ・国会図書館編「近代日本人の肖像」
 http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/313.html?cat=54 

橋本左内の洞察力は凄まじく、幕末時に国際情勢を展望して、鎖国の弊害、忠孝仁義の教えを固く守り、万国交易の必要性、国際連盟の創設、日英同盟、日露戦争を予見しています。そのための将軍継嗣や公武合体等の国内体制の改革を、朝廷や幕府、各藩に訴えたのでした。井伊大老に安政の大獄で死刑に追いやられた理由が、これだと言われています。幕府の重臣でさえ、井伊大老が橋本左内先生を死刑にしたことが倒幕の理由として十分だと言わしめたほどです。(平泉澄著『物語日本史』下P122)
●福井県での顕彰活動と今でも教育に活かされる 
 橋本左内先生顕彰会は橋本左内先生のご遺徳を顕彰し、合わせて郷土文化の振興に寄与することを目的に、昭和34年4月1日に発足しました。毎年、4月11日には生誕祭が春山2丁目常盤町の左内先生の育った生誕地で、10月7日には墓前祭が左内先生のお墓のある左内公園(墓前地)で、挙行されています。  https://www.city.fukui.lg.jp/kyoiku/gakusyu/sgakusyu/kenshoukai.html  
 さらに福井県の各中学校で、郷土の英雄・橋本左内先生が15歳の元服(成人式)の時に記した「啓発録」の中にある「立志」に基づき、「啓発録」を学び、立志式や立志作文を実施していると聞いています。  http://www.fukui-city.ed.jp/asuwa-j/fureai/fureai_gif/h22/fureai2011_03_01.pdf
  ・「橋本左内先生に学ぶ」推進協力校について
https://www.city.fukui.lg.jp/kyoiku/gakusyu/sgakusyu/suishinkyouryokukou.html#meido
 ・橋本左内先生冊子作成について https://www.city.fukui.lg.jp/kyoiku/gakusyu/sgakusyu/sasshi.html   ●『啓発録』橋本左内著
  橋本左内は、15歳の時の著書「啓発録」には、①幼心を去り、②気を振るい、③志を立て、④勉学し、⑤友を択べと書かれています。 ①稚心を去る(去稚心) 子どもじみた甘えを脱却せよ。

遊びにばかり熱中し、甘いものをむさぼり食い、毎日怠けて安楽に流れる。それも幼い子供のうちは強いて責めるほどのこともないが、学を志す十三、四にもなって、そんな気持ちが微塵でも残っていたなら、何をしても決して上達することはない。まして天下一流の大人物になることなど程遠い。  ②気を振う(振気) 恥辱を知って、人に負けまいと強く決意せよ。

 気とは、負けじ魂と、恥を知り、それをくやしく思う気象のことである。常にそうした心を持ち、その精神を奮い立たせ、緊張をゆるめず油断のないように努力しなければならない。 ③志を立つ(立志) 自分の目標を揺ぎなく定め、ひたすら精進せよ。

 志とは自分の心が向う目標である。一度決心したからには、真直ぐにその方向を目指し、迷わず進まなければならない。聖賢豪傑になろうと決意したら、聖賢豪傑らしからぬところを日一日取り去っていけば、どんなに才能が足らず、学識の乏しい者でも、最後には聖賢豪傑の地位に到達できるはずである。また、志を立てる近道は、聖賢の考え方や歴史の書物を読んで、その中から深く心に響いた部分を抜書きし、壁に貼り付けたり、常用の扇にしたためておくなど、常に目に触れるところにおき、自分を省みることである。 ④学に勉む(勉学) 優れた人物の立派な行いを見習い、実行せよ。学とは、本を読んで知識を吸収することだと思われがちだが、それは間違いだ。学問とは、優れた先人の立派な行いに習い、自分も負けるものかと努力することであり、忠義の精神を養うことである。どのような立場になろうとも、私心を捨て、公のために貢献しなければならない。
次に勉とは、自己の力を出し尽くし、目的を達成するまではどこまでも続けるという意味である。何事によらず、強い意志を継続し、努力を続けなければ、事は成らない。 ⑤交友を択ぶ(択交友) 自分の向上につながる友を択(えら)べ。自分と交際してくれる友人は、皆大切にしなければならない。しかし、飲み食いや歓楽を共にするために付き合い、馴れ合うことはよいことではない。学問の講究、武芸の練習、志や精神の研究などの上で交わりを深めるべきである。堕落につながる交際を求める友人がいたら、正しい方向へ導くべきである。
また、自分の過ちを遠慮なく指摘してくれる友は、時に厄介(やっかい)なものではあるが、とても大切だ。厳格で意志が強く正しい。温和で人情厚く誠実である。勇気があって果断である。才知が冴え渡っている。小事にとらわれず度量が広い。この五点を目安に友人を見定めればよい。小人は、他人にへつらい媚(こ)び、小利口で落ち着きがなく、軽々しくいい加減なものであるが、すぐに心安くなれるので、世間では人柄がほめられたりするものである。しかし、聖賢を目指そうと志す者は、彼らとは違った厳しい目を持たねばならない。
 ・『啓発録』全文 http://www.j-texts.com/kinsei/keihatu.html  

2月11日は「建国記念の日」(紀元節)

 写真は、神武天皇陵(出所:橿原市) http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_kankou/kankou/spot/jinmu.html 2月11日は、国民の祝日「建国記念の日」です。全国各地で、民間主導で様々な記念式典や奉祝行事が開催されています。 ・「ようこそ日本のはじまり」橿原神宮 http://www.kashiharajingu.or.jp/ 「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨のもとに、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する」(祝日法)国民の祝日です。 http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=323AC1000000178&openerCode=1 安倍政権になって、「建国記念の日」のメッセージが発出されるようになりました。 https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/discourse/20180211message.html ●紀元節が建国記念の日へ 「建国記念の日」は、戦前は「紀元節」でしたが、敗戦直後GHQの占領政策によって廃止されてしまいました。戦後国民の多くの要望や運動によって、昭和41(1966)年に祝日法が改正され、翌年から「建国記念の日」として復活して今日まできました。 わが国の建国の日が2月11日なのは、初代神武天皇即位の日であるところからきています。日本書紀によると、初代神武天皇が橿原宮(奈良県橿原神宮)で即位した日が「辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮」とあり、明治維新後に新暦換算して、紀元前660年2月11日と定めました。そこから、皇紀が生まれ、西暦に660年を足すと今年の皇紀が分かります。●国を愛する心を養う

12月28日は慰安婦問題の日韓合意の日

 12月28日は、日韓間の慰安婦問題について「最終的かつ不可逆的に解決」を国家間で合意した日です。平成27(2015)年12月28日に、日韓両外相が共同記者発表をしました(写真参照)。
  ・詳細は http://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/na/kr/page4_001664.html  しかしながら、韓国大統領が交代となると、日韓合意から2年後の平成29(2017)年12月27日に、韓国は日韓合意の検証結果を公表し、合意内容を批判し始めています。それに対して、我が国は、合意の履行を強く求めています。
  ・詳細は http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page4_003587.html 改めて、慰安婦問題について、事実を明らかにしておきたいと思います。 ●慰安婦問題の事実とは  慰安婦問題については、日本がこれまでとても誠実に対応してきているということと、事実関係が誤って認識されていることが多いということをお伝えしたい。 
1950~1960年代  先の大戦に係る賠償や財産、請求権の問題については、日本は、1950~60年代に締結したサンフランシスコ平和条約及びその他二国間の条約等に従って誠実に対応してきており、これらの条約等の当事国との間では、個人の請求権の問題を含めて、法的には解決済みである。 
 韓国との関係では、1965年の日韓請求権・経済協力協定により、日本と韓国との間の財産・請求権の問題は、完全かつ最終的に解決された。
 1990年代~2000年代  このように慰安婦問題を含めて、先の大戦に係る請求権の問題は法的に解決済みであったが、1990年代に入って慰安婦問題が日韓間の政治問題として提起されたことを受け、日本は誠実に検討し、措置を講ずることとした。 
<アジア女性基金>  具体的には、関連資料の調査等を行った上で、1993年に内閣官房長官談話を発表して、日本政府の認識を示した。加えて、既に高齢となった元慰安婦の方々の現実的な救済を図るため、1995年、日本政府と日本国民が協力して元慰安婦の方々への医療・福祉支援事業や「償い金」の支給等を行うために、アジア女性基金を設立した。この基金は、その後、そうした活動を、オランダ、フィリピン、韓国、台湾、インドネシアにおいて行った。また、その際、心からのお詫びと反省の気持ちを表す内閣総理大臣の手紙が直接元慰安婦の方々に届けられた。 2000年代~2010年代  その後も、韓国において、慰安婦問題を政治問題化する動きは止まらなかったが、2000年代には、それが米国などにおいても慰安婦碑や慰安婦像の設置、議会の決議といった形で現れた。そうした碑等においては、慰安婦が「強制連行」された、慰安婦の数は約「20万人」であった、慰安婦は「性奴隷」であるといったことが記されていることが多い。  日本は、このような事実に反する内容の記載に対し、累次の機会に反論してきた。   慰安婦が「強制連行」されたという主張に対しては、日本政府は、日韓間で慰安婦問題が政治・外交問題化した1990年代初頭以降、慰安婦問題に関する事実調査を行ったが、日本政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる「強制連行」 を確認できるものはなかったと反論している。
なお、 「慰安婦が強制連行された」という見方が広く流布された原因は、1983年、吉田清治という日本人が、「私の戦争犯罪」という本の中で、同人自らが、「日本軍の命令で、韓国の済州島において、大勢の女性狩りをした」という虚偽の事実を捏造して発表したためである。この本の内容は、当時、大手の新聞社の一つである朝日新聞により、事実であるかのように大きく報道され、日本、韓国の世論のみならず、国際社会にも、大きな影響を与えた。しかし、当該書物の内容は、後に、研究者により、完全に想像の産物であったことが既に証明されている。朝日新聞自身も、2014年に事実関係の誤りを認め、正式にこの点につき読者にお詫びしている。   慰安婦数が「20万人」という主張についても、日本政府は、具体的裏付けがないと反論している。
同じく朝日新聞は、2014年8月5日付けの記事で、「『女子挺身隊』とは戦時下の日本内地や旧植民地の朝鮮・台湾で、女性を労働力として動員するために組織された『女子勤労挺身隊』を指す。・・・目的は労働力の利用であり、将兵の性の相手をさせられた慰安婦とは別だ。」とした上で、「20万人」との数字の基になったのは、通常の戦時労働に動員された女子挺身隊と、ここでいう慰安婦を誤って混同したことにあると自ら認めている。   また、「性奴隷」という表現についても日本政府は反論している。事実、後で触れる2015年の慰安婦問題についての日韓合意においても、「性奴隷」という表現は使われていない。  他方で、日本政府の誠実な対応は変わっていない。例えば2015年8月14日の内閣総理大臣談話で、安倍内閣総理大臣は、「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」とした上で、「二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードして」いくとの決意を表明した。  さらに、韓国政府が慰安婦問題を提起し続けてきたことを踏まえ、2015年12月28日には、ソウルにて日韓外相会談が開催され、慰安婦問題につき妥結に至り、慰安婦問題が「最終的かつ不可逆的に」解決されることが確認された。同日後刻、日韓首脳電話会談が行われ、両首脳はこの合意に至ったことを確認し、評価した。日韓両国が合意に達したことについては、潘基文国連事務総長を含め、国際社会が歓迎の意を表明した。また、多くの元慰安婦の方々が、韓国が設立した財団の事業受け入れを表明した。既に日本は、この財団に対し、10億円の資金の支出を完了しており、日韓合意に基づく日本側の責務を果たした。一方で、ソウルの在韓国日本大使館前の慰安婦像が除去されないばかりか、2016年12月30日には、在釜山総領事館に面する歩道に慰安婦像が新たに設置されてしまった。  現在でも、米国などいくつかの国で、韓国系や中国系による慰安婦像設置等の動きが見られる。このような動きは政治的なプロパガンダであり、非常に残念なことである。在留邦人や日系人に対する無用な差別やコミュニティの分断につながる懸念もある。日本は、多様な民族が平穏に暮らせるよう切に望んでいる。  The Facts regarding the Comfort Women Issue  I would like to take this opportunity to explain that Japan has addressed the comfort women issue in a faithful and sincere manner and that the facts concerned are not properly recognized.  1950’s – 1960’s  Japan has dealt in good faith with the issues of reparations as well as property and claims arising from the World War II in accordance with relevant international agreements concluded from 1950’s to 1960’s, such as Treaty of Peace with Japan and bilateral treaties. Those issues, including the issues of claims by individuals, were thus settled from the legal point of view vis-à-vis the parties to those agreements.   Regarding the relationship with the Republic of Korea, the “Agreement on the Settlement of Problems Concerning Property and Claims and on Economic Co-operation between Japan and the Republic of Korea,” which were concluded in 1965, settled completely and finally the issues of property and claims between Japan and the Republic of Korea.  1990’s – 2000’s  As mentioned above, the issue of claims arising from World War II, including those related to the comfort women, had been legally settled. However, Japan sincerely examined what could be done and decided to exert additional efforts in the 1990’s, when the comfort women issue started to develop as a political and diplomatic issue between Japan and the Republic of Korea.   After the Government of Japan delved into the historical documents, the then Chief Cabinet Secretary issued a statement and expressed its recognition of the issue. In addition, in order to offer realistic relief to former comfort women who has already been advanced in years, the people and the Government of Japan worked together to establish the Asian Women’s Fund in 1995 with the objective of providing medical and welfare support as well as “atonement money” to those women. The activities of the Fund were carried in the Netherlands, the Philippines, the Republic of Korea, Taiwan and Indonesia. Successive Prime Ministers also sent signed letters on behalf of the Government of Japan, expressing apologies and remorse directly to each former comfort woman at the time of provision of the “atonement money” as well as medical and welfare support.  2000’s – 2010’s  Such political movements, which tuned the comfort women issue into a political issue, did not halt. They appeared in various ways in 2000’s, such as the installation of comfort women memorial and statue as well as the approval of the resolution of local assemblies. Such memorial usually carries an inscription, which reads that the comfort women were “forcefully taken away,” that there were approximately “200,000” comfort women, and that they were “sex slaves.”   Japan has taken various opportunities to refute these erroneous allegations.   Regarding the contention that the comfort women were “forcefully taken away,” the Government of Japan offers rebuttals that “forceful taking away” of comfort women by the military and government authorities could not be confirmed in any of the documents that the Government of Japan was able to identify in its study in the early 1990’s, when the issue developed as a political and diplomatic issue.
The reason behind the widespread belief that comfort women were “forcefully taken away” is a fabricated story reported by the late Japanese Seiji Yoshida in his book entitled “My War Crime” in 1983. In this book, Yoshida illustrates himself hunting many women by order of the Japanese military in Jeju Island of the Republic of Korea. At the time, the content of his book was widely reported as if it were a true story by the Asahi Shimbun, a major Japanese newspaper. It eventually made a tremendous impact not only on public opinion in Japan and the Republic of Korea, but also in the entire international community. The reality is, Yoshida’s story has later been proven to be entirely a product of imagination by scholars. In fact, the Asahi Shimbun later published articles several times including on August 5 and 6, and later in September, 2014, admitted having published erroneous articles, and officially apologized for it to their readers.  The figure “200,000 persons” as the number of comfort women also lacks concrete evidence according to Japan’s study.
The Asahi Shimbun clarified in its article dated on August
5, 2014 that “‘Women volunteer corps’ refer to the ‘women volunteer labor corps’ that were organized to mobilize women as a work force during the war in Japan proper as well as in the former colonies on the Korean Peninsula and Taiwan” and that “With the objective of using the women as a work force, the corps were different from comfort women who were made to serve as sexual partners for military personnel.” The Asahi Shimbun itself admitted that the figure “200,000” which it had reported was originated from its confusion with comfort women of the Women Volunteer Corps who were mobilized as a war-time labor force.  The Government of Japan rejected the expression “sex slaves.” To tell the truth, even the 2015 agreement on the comfort women issue, which I will mention later, did not include such description.

 It should be noted that the faithful attitude of the Government of Japan toward the comfort women issue has been solid and unwavering. For example, Prime Minister Shinzo Abe touched upon the issue in a statement on August 14, 2015, saying “We must never forget that there were women behind the battlefields whose honour and dignity were severely injured,” and “Japan will lead the world in making the 21st century an era in which women’s human rights are not infringed upon.”  Considering that the Government of Republic of Korea insisted to raise the comfort women issue, there held the Japan-Republic of Korea Foreign Ministers Meeting on December 28, 2015 at Seoul, which reached an agreement on this issue and confirmed that the issue was “finally and irreversibly” resolved. The Japan-Republic of Korea Summit Telephone Talk was followed on the same day, where the two leaders confirmed that both sides reached an agreement and honored such development. The international community, including the then United Nations Secretary-General Ban Ki-moon, welcomed this agreement. It should also be noted that the majority of the survivors of former comfort women at the time of the agreement expressed their willingness to receive support provided by the foundation. Japan has already contributed 1 billion yen to the foundation established based on the agreement, which clearly shows Japan’s commitment to the agreement. On the contrary, the statue built in front of the Embassy of Japan in Seoul has not been removed yet. What is worse, another comfort women statue was installed on the sidewalk facing the Consulate-General of Busan on December 30, 2016.  Furthermore, in countries including the United States, there still exist political movements which are seeking for putting up another comfort women statue by the Korean or Chinese groups. These are definitely political propaganda activities, which I am deeply concerned. They may also cause meaningless discrimination and divide local communities. I would like to see that members of the Japanese community who wish to live in peace and in harmony with other various groups.   

11月25日は憂国忌

NHKで45年前の「割腹自殺」のニュースを観ることができます。 http://cgi2.nhk.or.jp/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0012301114_00000  11月25日は三島由紀夫先生の命日「憂国忌」です。 三島由紀夫先生は大正14年1月14日に生まれ、作家として一世を風靡し、昭和45年11月25日に自衛隊市谷駐屯地で自衛隊に決起を求め、割腹自殺をして45歳で亡くなりました。●このまま行ったら日本はなくなってしまう 産経新聞に掲載された有名なコラムの結論を引用します。 【私の中の25年】三島由紀夫 果たし得ていない約束 恐るべき戦後民主主義 
 「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」   (出所:「昭和四十五年七月七日付産経新聞夕刊」)
  市ヶ谷駐屯地での最期の檄文の結論を引用します。   激   楯の会 隊長 三島由紀夫 「日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。」  (出所:『三島由紀夫全集34』新潮社・昭和51年2月)

 上記の全文は以下で転載しています。
 http://ameblo.jp/akaike-masaaki/archive1-201501.html
 ●我が国を護るために それから45年が経ちます。三島由紀夫先生の訴えは今も続いています。 現在憲法学者の6割は自衛隊を違憲と考え、8割は憲法9条改正の必要性はないと回答しています。
【安保報道】朝日新聞 憲法学者アンケートの結果の一部を紙面に載せず
 http://bylines.news.yahoo.co.jp/yanaihitofumi/20150722-00047752/   自衛隊を憲法に明記する最低限の憲法改正を実現したいと、憂国忌の今日、改めて思っています。●参考資料  最近産経新聞が、関係者の証言を基に「三島由紀夫事件」を特集しています。  http://www.sankei.com/life/topics/life-30971-t1.html 
 詳細な年譜は、山梨県山中湖村の三島由紀夫文学館のHPで読むことができます。  http://www.mishimayukio.jp/history.html

 

12月25日は大正天皇例祭日

写真は、大正天皇崩御を報道する当時のNHKニュースです。 http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060005_00000  大正天皇御製 年どしに わが日の本の さかゆくも いそしむ民の あればなりけり
(大正5年歌会始)  12月25日は、先々帝の大正天皇が崩御された日です。 毎年皇居内の皇霊殿において、大正天皇例祭が斎行されています。    http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi01.html 
 また、八王子にある多摩陵(たまのみささぎ)でも、勅使が参向されています。  http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/123/index.html
  さらに、各地の神社においても、例祭が執り行われ、御陵を遥拝しています。  靖國神社 http://www.yasukuni.or.jp/schedule/  宮崎神宮 http://miyazakijingu.jp/modules/about/index.php?content_id=3  ●大正天皇の生涯
  明治12(1879)年8月31日に、明治天皇の第三皇子として、東京にお生まれになりました。母は女官の柳原愛子(なるこ)。明治天皇の崩御により即位し、大正と改元し、第123代天皇に即位。第一次世界大戦やロシア革命があり、国際情勢が激動し国際協調お気運が高まる中、国内では護憲運動、天皇機関説論争、関東大震災などが発生しました。幼少から健康がすぐれず、大正10年11月皇太子裕仁(ひろひと)(のちの昭和天皇)を摂政としています。皇室として初めて一夫一妻制を確立しました。 大正15(1926)年12月25日崩御。48歳でした。墓所は多摩陵(みささぎ)(東京都八王子市)。幼称は明(はるの)宮。諱(いみな)は嘉仁(よしひと)。 (出典)講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus  ●大正デモクラシー、普通選挙  平成28年7月の参院選から18歳19歳に選挙権が付与されることになりました。わが国では、納税要件をはずして誰でも選挙権を得る「普通選挙」が実現したのは、大正時代でした。国際協調の中資本主義が発達し、大正デモクラシーと呼ばれ、閥族打破・立憲政治を求める護憲運動(憲政擁護運動)が、普選運動(普通選挙実現)と連動し、長年の国民運動の成果として大正15(1926)年に25歳以上の男性すべてに選挙権が付与されました。女性の選挙権付与の運動も活発に行われましたが、その実現は戦後を待たねばなりませんでした。  選挙権はただ与えられたものではなく、長年の普通選挙を実現しようとした先人たちの努力の成果であり、その歴史を、大正天皇祭の今日、改めて振り返りたいと思います。 

11月7日はロシア革命とゾルゲ事件の日

『ゾルゲの見た日本』新装版 みすず書房編刊 2017年 11月7日は、ロシア革命が起き、「20世紀最大のスパイ事件」と言われるゾルゲ事件のゾルゲと尾崎秀実が処刑された日です。 1917年大正6年11月7日にロシア革命が起き、帝政ロシアが崩壊し、ソビエト連邦が成立しました。共産主義者が初めて政権を奪取し、その後の国際共産主義運動(コミンテルン)が日本はじめ全世界を席巻します。優秀な人材をオルグ(組織化)して、細胞(革命工作員)を各組織に潜り込ませ、労働者や一般人を扇動し、サボタージュや破壊活動を起こしました。その脅威は、今日では考えられない程のものでした。●リヒャルト・ゾルゲ(1895-1944)の暗躍 その赤色革命の信奉者が、ドイツ人記者でソ連のスパイであったリヒャルト・ゾルゲ(コードネームはラムゼイ、1895-1944)であり、彼の諜報団の仲間、朝日新聞記者の尾崎秀実(おざきほつみ、1901-1944)らでした。ゾルゲは、ドイツや日本のソ連侵攻の有無という機密情報をソ連に伝え、救国の英雄として現在でも尊崇されています。 先日たまたまワールドニュースを観ていたら、ロシアのある地域でゾルゲの銅像の除幕式のことが流されていました。また、10月4日にはゾルゲが埋葬されている東京の多摩霊園で、ゾルゲ生誕120年献花式が実施されていました。いまだに尊敬されているのかと驚きました。 http://jp.rbth.com/news/2015/10/06/479903●尾崎ら日本人協力者 尾崎は、米国人記者で米国共産党のアグネス・スメドレーからゾルゲを紹介され、朝日新聞記者としての情報宣伝活動のみならず、総理となった近衛文麿の側近としても活動し、支那事変や北進策ではなく南進策を採用する等の国策に影響を与え、ソ連にその情報を伝え続けました。 ゾルゲ諜報団(ラムゼイ機関とも言う)20名は、昭和16(1946)年大東亜戦争開戦前に、国家保安法や治安維持法によって、次々に逮捕されました。首謀者であったゾルゲと尾崎は、戦争末期の昭和19(1944)年11月7日のロシア革命記念日に、巣鴨拘置所で死刑となりました。●イデオロギーと諜報活動の脅威を防ぐために 現在、冷戦が終結してソ連はじめ共産主義各国が崩壊し、共産主義の脅威について、実感を持って感じられなくなってしまっています。しかしながら、日本の周辺国には、いまだに中共と北朝鮮という形を変えた共産主義、全体主義国家が跳梁しています。中共においては、伝統的な中華思想と共産党一党独裁が結合して、資本主義の経済力をつけて最悪の全体主義国家として、世界の脅威となっています。 国内においても、天皇制打倒を掲げ、国際共産主義運動の日本支部として誕生した日本共産党がいまだ活動を続けており、暴力革命を表面的に放棄したとはいえ、二段階革命(民主主義革命後に共産主義革命を起こす)を目指し、防衛省はじめ国家中枢に工作員網を張り巡らしています。例えば、先の国会での平和安全法制の審議中に、防衛省の内部情報が共産党に漏れ、国会で質問されて問題になったことは記憶に新しいところ。 また、外交活動には諜報活動が表裏一体であるとの国際常識の下で、日本は「スパイ天国」と呼ばれて官民の重要な情報が搾取され放題でした。国内においては、公安警察や公安調査庁等があるとはいえ、課題があると言えます。安倍政権になって、内閣官房に国家安全保障局が設置され、スパイ防止法の役割を担う特定秘密保護法が制定され、施行され始めました。しかしながら、対外諜報活動は、情報収集衛星だけでは限界があり、ヒューミント(HUMINT、Human intelligence=人間やメディアを媒介とした諜報活動)は、外務省や防衛省が担っているとはとても言えるような状況ではありません。日本も、一日も早く対外諜報機関を設立すべきだと考えます。北朝鮮に拉致された日本人の救出することを考えた時に、自衛隊の特殊部隊に実力で奪還する力があっても、拉致された日本人の所在情報がなければ、救出することはできないからです。 現代は、共産主義だけでなく、ISIL等のイスラム原理主義の台頭もあります。改めて、ロシア革命とゾルゲ事件の起きた今日だからこそ、イデオロギーと諜報活動の脅威を教訓にして、私たちの国の行く末を考える日にしたいと思います。

7月13日はノーベル平和賞・劉暁波氏の命日

写真は、劉暁波氏と妻の劉霞さん(出所)ハフポスト/ロイターhttp://www.huffingtonpost.jp/2017/07/13/liu-xiaobo-final-statement_n_17478148.html●ノーベル平和賞受賞者・劉暁波(Liu Xiaobo)氏逝去 チャイナの教師で文筆家、民主化活動家で、2010年ノーベル平和賞受賞者の劉暁波(Liu Xiaobo)氏が、2017年7月13日に逝去しました。中共の言論弾圧で投獄され、獄中で肺ガンとなり、国外治療も許されず、遼寧省瀋陽市の病院で息を引き取りました。享年61歳でした。六四天安門事件から28年、国内に留まり非暴力主義で中共と対峙し続けた気高い人生に、敬意を表したいと存じます。氏の死と墓所が民主・人権の象徴化することを恐れた当局は、家族に圧力をかけたのか、あっという間に15日に火葬がなされ、その日の内に遺灰が海に散骨されてしったとのことです。 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170716/k10011060771000.html 彼の死を悼みつつ、改めて国内外に害毒を流し続ける中共の一党独裁体制の変革は不可避だと確信しました。  中共は、我が国の隣国であり、13億人の世界一の人口を抱え、「偉大なる中華民族の復活」を掲げて、世界第二位の経済大国を背景に、宇宙やサイバー、海洋にも浸出している軍事大国でもあります。我が国の尖閣諸島沖の領海への接続、侵入は常態化しており、7月15日には長崎県対馬、福岡県沖ノ島周辺の領海にも、中共の公船(海警局)が初めて侵入しました。一方、上野動物園のパンダの赤ちゃん誕生が話題となっていますが、高額貸与されたパンダはまさに彼の国の外交道具です。以上を強力に指導しているのが共産党の一党独裁体制です。●劉暁波氏の「零八憲章」 劉暁波氏は、1989年六四天安門事件で「四君子」(4人の指導的知識人)として注目され、以後当局による監視が行なわれ,活動が制限され、何度も投獄されました。 六四天安門事件とは https://m-a.amebaownd.com/posts/3429864 それにもかかわらず、亡命せずに本国に留まり続け、2008年世界人権宣言60年の節目に「零八憲章」を公表し、次のように中共の一党独裁体制を批判しています。 「1949年に建国された"新中国"は、名前こそ"人民共和国"だがその実は"党の天下"である。政権政党は政治・経済・社会の全ての資源を壟断し、反右派闘争、大躍進、文化大革命、六四天安門事件や、宗教活動及び維権運動の弾圧など一連の人権災害を引き起こし、数千数万の命が奪われ、国民も国家も無残なつけを払わさせられた。」 「法律あって法治無く、憲法あって憲政無く、というのが誰の目にもはっきりとした政治の現実である。為政者集団はなお権威主義的な統治を堅持・継続し、政治変革を拒んでいる。このことから、官界が腐敗し、法治が妨げられ、人権が霞み、道徳が失われ、社会が両極に分化し、経済が奇形の発展を見せ、自然環境と文化環境が幾重にも破壊され、公民の自由・財産と幸福を追求する権利が制度化された保障を得られず、各種の社会矛盾が絶えることなく積み重なり、不満が膨らみ続け、特に官民の対立と群衆事件が激増し、破滅的な制御不能の趨勢に陥っている。現行体制の立ち遅れぶりはもはや改めないでは済まない段階に至っている。」 そこで、自由、人権、平等、共和、民主、憲政の6つの基本理念の基、憲法改正、分権均衡、立法民主、司法独立、公器公用、人権保障、公職選挙、都市農村平等、結社自由、集会自由、言論自由、宗教自由、公民教育、財産保護、財政税制改革、社会保障、環境保護、連邦共和、正義回復の19の主張を訴えたのでした。 http://www.a-daichi.com/freetibet/charter08/ 以上の劉暁波氏の「零八憲章」は、我が国から見れば、当たり前のことばかりです。その当たり前のことが隣国、世界第二位の経済大国である中共にはないということです。その証拠に、劉暁波氏が「零八憲章」をネットで公表し、海外を含め1万人の賛同署名を集めると、憲章発表の前日に当局に拘束され、10年2月に「国家政権転覆扇動罪」の罪で、懲役11年の実刑判決を受けてしまいました。彼だけでなく、妻も軟禁状態に置かれました。そして、今回彼が重い肝臓がんの病気になった後も、治療のための出国も許されず、逝去後も当局の監視下に置かれ、遺骨の海への散骨が強制されたのです。 いくら中共が死後も劉暁波氏を隠そうとしても、彼の訴えたことを覆い隠すことはできないと思います。なぜなら、彼の主張は普遍的な真実を突いており、それはチャイニーズにとっても同様だと思うからです。●我が国の外務省報道官談話 我が国の外務省は、7月14日にノーベル平和賞受賞者・劉暁波氏の死去に際して、報道官談話を出しています。1 自由と民主の追求に人生を捧げられた劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏のご逝去の報に接し、心から哀悼の意を表します。2 日本政府としては、自由、基本的人権の尊重、法の支配は、国際社会における普遍的価値であり、これらが中国においても保障されることが重要であると考えています。引き続き高い関心を持って、中国の人権状況を注視していきます。3 そのような観点から、劉霞(りゅう・か)夫人に関しても適切な対応がなされるべきであると考えます。http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page4_003141.html うーん、外務省は、もっとはっきり言うべきでしょう。外交戦とは言葉の戦いでもあるのですから。これでは、あまりに弱腰すぎます。自民党からしっかり注文を付けていきたいと思います。

12月23日 奉祝 天皇誕生日

 12月23日は、天皇陛下の御生誕日です。心より御祝を申し上げ、皇室と我が国の弥栄を心より祈念致します。国家安泰、国民安寧、聖寿万歳。●天長節 戦前では、天長節と言われていました。天長の語は、老子の「天長地久」(天は長く地は久し)からきており、既に大陸の皇帝が誕辰の日を天長節と称しており、わが国では宝亀6(775)年光仁天皇(第49代)が起源となりましたが、のち廃絶となり、明治元(1868)年に再興され、国家の祝日となりました。四方拝、紀元節、明治節とともに四大節の一つとして御祝されてきました。 https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E9%95%B7%E7%AF%80-578524 明治23年教育勅語が公布され、翌年文部省は小学校に祝祭日のお祝いを執り行うよう指示しました。紀元節(2月11日)、天長節(11月3日)、元始祭(1月3日)、神嘗祭(10月17日)、新嘗祭(11月23日)の祝祭日は、御影に最敬礼し万歳、教育勅語奉読、校長訓話、祝祭日に相応する唱歌合唱することになりました。祝祭日には、それに相応しい歌が作られたのでした。http://www.geocities.jp/saitohmoto/hobby/music/shukujitsu/shukujitsu.html#02天長節 (黒川真頼 作詞、奥 好義 作曲)  今日の吉(よ)き日は 大君(おほきみ)の。  うまれたひし 吉(よ)き日なり。  今日の吉き日は みひかりの。  さし出(で)たまひし 吉き日なり。  ひかり遍(あまね)き 君が代を。  いはへ諸人(もろびと) もろともに。  めぐみ遍(あまね)き 君が代を。  いはへ諸人(もろびと) もろともに。 https://www.youtube.com/watch?v=Y-2iT-dZfCk 天長節は、明治天皇の御代が11月3日(明治節)、大正天皇が10月31日(実際は8月31日だが暑いので変更)、昭和天皇が4月29日でした。 125代の天皇と国民が共に治めてきた、2千年来連綿と続くわが国。その伝統を振り返りつつ、今日から明日への活力に繋げていきたいと思います。

12月13日は南京攻略戦の日 歴史の事実は

 12月13日は、昭和12(1937)年に支那事変が起き、日本軍が国民党の首都である南京城を陥落させた日です。中共はユネスコの記憶事業に「南京大虐殺」を登録し、江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」前では「国家哀悼日」の式典が行われ、日本軍によって30万人が大虐殺されたとプロパガンダ(政治宣伝)が展開されています。●防衛庁防衛研修所戦史室がまとめた「南京攻略戦」 昭和12(1937)年の支那事変での首都南京攻略戦について、歴史の事実をどう捉えたらいいのでしょうか。数多の資料があるのですが、その中で重要な資料として、防衛庁防衛研修所戦史室が昭和50(1975)年にまとめた『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)』があります。当時の防衛庁担当室が1次史料に当たって、戦史としてまとめたものです。大変参考になりますので、その中にある「南京攻略戦」についての該当ページを紹介したいと思います。南京攻略戦について、同書の436から438ページを以下全文引用します。●軍紀厳守指導も、事犯ひん発。軍法で厳重処分。 「南京は外国権益が多く、また多数の非戦闘員や住民がいる関係上、方面軍司令官は、とくに軍紀風紀を厳守するよう指導していたが、遺憾ながら同攻略戦において略奪、婦女暴行、放火等の事犯がひん発した。これに対し軍は法に照らし厳重な処分をした。 ところが、当時同地にとどまっていた諸外国特派員が生々しい戦禍の状況を世界に報道し喧伝した。たとえば英国マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員H・Jティンバーレンが、昭和十三年七月「中国における日本軍の残虐行為」を編集発行し、米国のジャーナリスト、エドガー・スノウはその著「アジアの戦争」(昭和十六年)のなかでこれを紹介し「軍国主義日本の狂暴」を全世界の人々に印象づけようとした。そのなかで最も強調しているのは、日本軍が何十万という捕虜や住民を虐殺したということである。 これが事件として取り上げられたのは、終戦後の極東国際軍事裁判及び南京の特別軍事裁判であった。南京の裁判では処刑そのものを必要とする政略的理由から、約三〇万の軍民が虐殺されたとして、谷壽夫中将以下四人の軍人が処刑された。東京の裁判では、南京占領から一か月の間に男女子供を含む非戦闘員一・二万、掃討戦の犠牲者二万、捕虜三万以上、計六・二万以上が殺害され、さらに近郊に避難していた市民五・七万人以上が餓死あるいは虐殺されたという判決を下した。 しかし、その証拠を仔細に検討すると、これらの数字は全く信じられない。 一方、当時の日本軍は、南京付近防衛の中国軍を約一〇万と判断し、昭和十二年十二月十八日「敵の遺棄屍体は八、九万を下らず、捕虜数千に達す」と発表したが、翌年一月「敵の損害(死傷者)は約八万、うち遺棄屍体は約五万三、八七四」と算定した。しかし、日本軍の戦果発表が過大であるのは常例であったことを思えば、この数字も疑わしい。」●若干の事実を誇大宣言 「しかし、これが事件として取り上げられたのは、若干の事実があったからであり、これが誤解、曲解され、さらに誇大宣伝されたためであろう。以下、諸資料を総合すると次のように考えられる。 作戦地域は、中国防衛軍の手によって「空室清野」戦術がとられたため、一般住民の被害は大であったろう。 (※引用者注。空室清野戦術とは、焦土作戦の一種。中国では古来からの戦法とされ、チャイナの国民党軍によって行われた。城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、城外は徹底して焦土化する(清野)ことで、進攻してきた敵軍は何も接収できないようにして疲弊させ、持久戦を有利に運ぶ狙いで行われたと言われています。) また、南京攻略戦は完全包囲殲滅戦であったから、戦闘行動による中国軍の損害が多かったのは当然である。」●南京事件とされる四つの問題点 ①軍民の混淆、②便衣兵、③捕虜の認知、④処遇 「問題は、(一)占領直後の敗残兵掃討戦において、多数の非戦闘員や住民が巻き添えをくらって死亡したこと、とくに中国軍後退部隊と避難民が混淆した南京北方及び西方地区で大であった。ただし非武装住民であっても、軍に協力し、あるいは遊撃戦に関与して対敵行動をとったものは戦闘員とみなさざるをえない。 (二)南京の人口は、平時約一〇〇万、南京攻略戦闘開始当初約三〇万、そのうち数万が作戦間に退避し、日本軍占領時には、そのうちの二十数万がおおむね難民区に集まっていた。しかし南京陥落直後は完全な無政府状態で混乱を極めていた。(日高信六郎参謀官談) ところが敗残兵の多くのものは、武器を捨てるか陰匿して住民に変装し、いわゆる便衣兵となって潜伏した。この便衣隊を住民のなかから摘出検挙することは非常に困難であるが、この際にも無抵抗の住民に若干の犠牲があったと考えられる。 (三)投稿者を捕虜と認めず、従って捕虜として取り扱われぬことが少なくなかった。日本軍の攻撃部隊は、中国軍側に比べ兵力が僅少であったので、戦闘行動中に投降する者があっても捕虜として監視する兵力がなく、足手まといとなるばかりであり、偽装投降の前例も多かったことや、真に中国兵が戦意を喪失しているのかどうかの判別が困難であったこと、日本兵の恐怖心や敵愾心が強く、殺すか殺されるかという切迫した状況下では冷静な判断ができ難いこと、それに捕虜として遇するための設備や補給能力がなかったためである。これらは作戦が猛烈な追撃戦に次ぐ激烈な堅陣攻撃及び市街戦であった特性上からくるものであり、日本軍の第一線部隊のみを責めることはできない。 (四)南京占領後の捕虜の処遇も十分とは言いがたい。これは激戦直後の将兵の敵愾心、捕虜収容設備の不備などによるものであるが、捕虜殺害の数はさほど大ではないようである。第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは十五日、山田旅団が幕府山砲台付近で一万四千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処遇い困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約一、〇〇〇名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将兵以下七名が戦死した。なお第十六師団においては、数千名の捕虜を陸軍刑務所跡に収容している。」●結論 「戦闘行為の結果が大部」「計画的組織的な「虐殺」とは言いがたい」 「以上、各項目について具体的に正確な数字を挙げることは不可能であるが、南京付近の死体は戦闘行為の結果によるものが大部であり、これをもって計画的組織的な「虐殺」とは言いがたい。しかしたとえ少数であったとしても無辜の住民が殺傷され、捕虜の処遇に適切を欠いたことは遺憾である。」●歴史の事実を踏まえた議論を 以上が、防衛庁防衛研究所戦史室がまとめた南京事件の結論です。その後、証言集や民間の学者の研究がいくつもありますが、当時の一次史料の基づいた研究としては、現在でも重要な戦史報告書だと思います。私たちは、歴史の事実を学び、それを踏まえた議論を展開したいと思います。